殉難三士(じゅんなんさんし)

 幕末の頃、毛利藩は、幕府の長州征伐やイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合軍の下関攻撃への対応をめぐって、①俗論派②正義派に分かれてはげしく対立していた。俗論派が、正義派を圧して藩政を行うようになると、これを不満とする高杉晋作が、正義派の③諸隊に呼びかけて蜂起し、大田・絵堂の戦いで俗論派の藩軍を破り、山口に本拠をかまえた。
 このとき、藩軍は前軍を絵堂に、中軍を明木に、そして後軍を三隅に布陣した。絵堂の戦いで諸隊に破れた前軍は、明木の横瀬まで退却した。一方、山口に移った正義派の諸隊の一部は、佐々並に進撃し、ここでも藩軍を破り明木に退却させた。
 この頃萩では、高杉らの諸隊に賛同する藩士が結束して、鎮静会議員を名乗り、諸隊との和平を進めようとした。この時、和平交渉の使者として選ばれたのが、香川半介(35歳)、桜井三木三(36歳)、冷泉五郎(25歳)江木清治郎の四名である。彼らは2月10日、山口の諸隊を訪れ、④藩主の意向伝えるとともに、萩に突入しないように説得した。
 藩軍の中には、藩軍に批判的な鎮静会議員による和平交渉に反対する者がいた。彼らは、事前協議もなしに勝手交渉に行った四人の使者に激怒し、使者の帰りを明木の権現原で待ち伏せして、香川、桜井、冷泉を殺害し、江木に深手を負わせた。江木は傷を負いながらも、笛吹-洗い谷-惣田-河内-大屋を通って萩に帰り着いた。時に慶応元年(1865)2月12日であった。
 その後和平が成立して、正義派も藩政府員に加わり、挙藩一致の態勢ができた。このとき、俗論派の児玉吉郎、冷泉太郎兵衛ら7名が、三士殺害の犯人として捕らえられ、野山獄で切腹させられた。


権現社

殉難三士の碑

地蔵半跏像



俗論派の主張 一意恭順・・・・・ひたすら幕府に謝罪して、藩の存続を図ろうとする。
正義派の主張 武備恭順・・・・・条件によっては、一戦も辞さない態度で折衝しようという。
諸隊 御楯隊(みたてたい)、おう懲隊、奇兵隊、八幡隊など。
藩主の意向 俗論政府下で捕らえられた旧政府要員の処分を寛大に扱う。
人事の刷新をすみやかに行う。

権現原の地蔵と殉難三士の関係について

 この地蔵は、三士殉難の地に、三士の冥福を祈って建立されたといわれている。また、明木川が権現原でいつも氾濫するので、田畑を水害から守るために建立されたとも言われている。二つの言い伝えについて考えてみよう。
 かつて、往還は川に沿ってこの地蔵のそばを通っていた。山口から帰ってきた三士らが、権現原にさしかかったとき、地蔵のかみにある土橋の下にかくれていた刺客に突然襲われ、格闘がこの辺りで展開され、三士は一人二人と倒れていった。地蔵は、三士殉難以前からここにあり、このことがあってからは、三士の冥福を祈る地蔵となったのではなかろうか。
 地蔵のそばにある石燈籠には、「奉献 明治一二年(1879)七月二十四日 岡政介 中谷金槌 斉藤清太 内村勇吉 吉岡市熊」と刻まれている。地蔵と石燈籠が、一緒につくられたのなら、この推理はあたらない。