町田梅之進自刃の地(まちだうめのしんじじんのち)

 町田梅之進は、はじめ、鎮静会議員として活躍したが、後に馬関攘夷では、藩の先鋒隊して藩主の護衛にあたり、幕府の長州征伐では、千城隊に属して広島方面に出陣した。そして、戊辰の役では、千城隊書記兼駆引役として越後の柏崎まで進撃し、胸部に戦傷を受けた。明治二年(1869)、藩命により、東京に留学してフランス兵学を学んで、同四年帰萩した。
 明治九年(1876)10月、熊本の神風連、筑前の秋月の乱に呼応して、新政府に反省を求めようとした前原一誠をリーダーとする萩の乱に加わり、禁固10年の計に処せられた。
 自宅の土蔵で刑に服していたが、新政府の施策を不満とする同士と、ひそかに連絡を取っていた。九州の西郷党の動きを聞いて、じっとしておれなくなり、明治10年5月30日、萩・阿武地区の同志と、新政府の施策を正すために、山口県庁を襲い、西郷党と合体しようとして決起の準備をした。ところが、密告者のために警察に捕まえられてしまった。その夜、血気はやる同志が警察を襲い、町田を連れだした。そして、警察に火を放って出陣の合図とした。しかし、この時すでに夜でもあり、遠隔地の同志への連絡が十分とれず、200名の集合予定が、実人員はその半数にも満たなかった。その夜おそく、同志は明木駅を本陣として、軍資金の調達を始め、戸長滝口吉良宅に放火した。
 5月31日、県庁軍と町田の同志は、佐々並で出会い相対したが、6月1日になると、県庁軍は明木まで進んだ。
 優勢に進撃した県庁軍だったが、巡査や県庁職員の混成軍のため、なれない山道の行軍で隊員の疲労がはげしく、一升谷のたて樋に着いた時、すでに午後3時でもあり、野営の準備を始めた。
 その時、突然町田隊が鉄砲を撃ちながら進撃してきた。ふいをつかれた県庁軍は、あわてふためき、大多数の隊員は山の中へ逃げてしまった。隊長の秋良貞臣派、残ったわずか5.6名をまとめて山手に引き上げ、樹木を楯として防戦した。
 町田隊は勢いに乗って進撃し、町田梅之進自ら陣頭にたち、大声を上げながら、秋良めがけて肉迫した。秋良はこれに対して、短銃で応戦した。数発撃った弾のうち、2発が町田の腰に当たった。山に登って秋良に迫ることのできなくなった町田は、道の真中に直立し、「刀を抜いて決戦せよ」とつめよった。
 秋良は、町田まで数歩の所に進み、短銃の引き金を引いた。弾は、町田のこめかに命中した。そのため、町田は、もはやこれまでと、同志に支えられて、行司の墓の所まで下がって、刀を自らの喉に立てて、自害した。行年30歳であった。
 なお、県庁軍の隊長秋良貞臣は、その後県庁を退き、防府で塩田事業に取り組み防府塩田のもといをつくった。

町田梅之進自刃之地