大正7年、山口線が三谷まで開通、以来、探勝客は急激に増加しました。大正9年、阿武郡長岡村勇二は上京して、南宗画家であり、地質学者の高島北海(1,850~1,931・萩の人・名は得三)をたずね、本峡開発についてその意見を求めました。その年の8月、北海は山根武亮とともに、阿武川上流の「長門耶馬溪」を探勝し、高島北海(1850~1913)長門峡図/山口県立図書館蔵本峡の開発には探勝道路の開さく(鑿)こそ急務であると力説し、これが経費捻出のため、11月長門峡真景100幅画会を結成、村内を始め広く近隣町村有志の協力を得て、北海は自ら細管をふるった長門峡真景100余幅を売却、その代価17,600余円を寄付され、現在の探勝路の基礎が作られました。
大正9年8月10日、長門耶馬溪は高島北海によって「長門峡」と命名され、同年10月30日、長門峡仮停車場の営業開始とともに、婦女子の探勝も容易になったので、遠近からの観光客が殺到するようになり、現在もその人気は衰えておりません。
以来長門峡は山口県を代表する渓谷で、全国約30の著名な渓谷にリストアップされ、国および県の「名勝及び天然記念物」に指定されています。