明木市・佐々並市(めいきいち・ささなみいち)

 萩往還の完成と共に、明木市も佐々並市も宿場町として、また、市の町(商店の並ぶ町)として栄えた。両市の家並みは、現在とほとんど同じであったが、明木市は、明治24年の大火で焼失して新しく建てられたし、佐々並市も、ほとんどの家が改築されているので、その面影をとどめていない。
 1845年頃の記録によると、両市は次のようであった。

(1)戸数


明木市    73軒  (商人20軒 宿人夫馬持 53軒)
佐々並市   62軒  (商人15軒 宿人夫馬持 47軒)
       商人、宿人夫(人や荷物を選ぶ人)とも、農業に従事していた。

 


(2)御茶屋
佐々並市には、御茶屋があった。現在の佐々並農業協同組合木材部、旧佐々並小学校の敷地内に、長松寺の前身である長松庵があった。毛利輝元が、萩へ移転する祭にここで休息したといわれる。それにちなんで、御茶屋が建てられたと伝えられている。
 御茶屋は、670㎡の広さがあって、本館、御長屋門、御蔵、御共中腰掛(おともちゅうこしかけ)、仮御馬立2ヶ所、それに御番所があった。後年、往来の通行がひんばんになると、宿泊施設が不足して、御客屋が設けられて、木村作兵衛宅は役場の隣に、井本弥八宅はその向い側にあった。

佐々並川

佐々並市


佐々並市

山から見た佐々並市


宿駅

 宿駅は、人・荷物・御用状などの輸送をした所で、目代(もくだい)と呼ばれる役人がいて、人馬や駕籠の調達、賃金の徴収をした。明木には、人夫19人と馬30頭が配置され、市の現在の小林商店の所にあった。

高札場(こうさつば)

 幕府や藩の御触れ(法令や規則など)を掲示する場所。大きさは、明木も佐々並も大体同じであった。明木の場合を例にとると、長さ6.3メートル、幅1.8メートル、高さ0.9メートルの土塁を石垣で囲み、その上に板葺(いたぶき)屋根のついた長さ5.4メートルの掲示板が、4本の柱に支えられて立っていた。
「慶安の御触書(1649)」を例にとると、次のようなことが書かれていた。
一、  百姓は、酒、茶を飲んではいけない。
一、  百姓は、麦、粟、ひえ、菜、大根その他どんにものでもよいから雑穀を作って、お米をたくさん食べないようにすること。
一、  百姓の衣類は、もめんだけとする。帯や着物の裏に、絹などをつかってはならない。

 

さらに、藩の御触れ(郡中制法 万治三年 1660年)の中には、
「百姓として、直参の諸士に不心得をしてはならない。少々杖を受けても堪忍し、事情は追って郡奉行官に訴え出ること。はむかった場合は、百姓の方が悪い。右の事情を調べ、諸士に非があれば、その程度によって法を行い、百姓に落度があれば、これを重罪とする。道で直参の武士や他国の乗馬の武士に出会ったら、必ず下馬すること。」といったような事が書かれている。
 高札場は、明木では最初、西来寺側から橋を渡って左側にあったが、後に、堂尾あたりに移された。佐々並では、久年側から市橋を渡って左側にあった。現在は河川敷になっている。
 その他の公共施設としては、御米蔵とその番小屋があった。明木では蔵屋に、佐々並では宮の川にあった。