松陰東送の碑(しょういんとうそうのひ)

 安政6年(1859)5月25日、午前9時頃、網乗物(細引きで創った網が駕籠にかけてある)に乗った松陰は、食事ができる程度にゆるく手をしばられ、書物を二冊もって、小雨の降る萩を後にした。佐々並市で昼食をとり、夏木原にさしかかって小休止となった。
 ここで松陰は、日本の現状を憂い、行く末を案じて次の詩を残した。

縛吾台命治関東 吾れ縛(しば)し台命もて関東に致(おく)る、
対簿心期質昊穹 簿に対し心に期す、昊穹(こうきゅう)に質(ただ)する。
夏木原頭天雨黒 夏木原頭、天雨黒く、
満山杜宇血痕紅 満山の杜宇、血痕(けっこん)紅なり。

 私は幕府の命令で江戸へ送られるが、自分の真意は、天の神に正したらわかるはずである。自分は、公明正大である。ここ夏木原では、さみだれがしとしとと降り、ほととぎすが、しきりに鳴いている。ほととぎすは、血を吐くまで鳴くと言うが、その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。自分の胸中もまた同じ思いがする。

 江戸に着いた松陰は、伝馬町の牢に入れられ取り調べを受ける。刑は「遠島」ときまった。しかし、その書類が、大老井伊直弼のもとへまわると、井伊は朱筆をとって「遠島」を「死刑」と改めた。
10月20日、父・叔父・兄宛に永訣(えいけつ)の手紙を送る。
 
 親思うこころまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん
千古不朽の歌である。そして、10月25日、

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
と詠んで、29歳を一期として死出の旅についた。

吉田松陰 東送の碑