弥三郎きつね

▲貴布祢神社

 毛利の殿様が萩に移られて、萩と三田尻に往還ができてから、佐々並市は、宿場町として大そう繁昌しました。夜のとばりがおりる暮六ツ頃になると、江戸から帰って来られたお侍や、これから江戸へ向かわれる方々で、はたごは、上を下へのにぎわいでした。なかでも、毛利のお武家様の常宿である土山屋は、ひときわ賑わっておりました。
 その頃のことです。三田尻の車塚に、弥三郎という名のきつねが住んでおりました。この弥三郎は、ひどく好奇心の強いきつねで、あるとき、大勢のお武家様を、したがえて進む※殿様行列を見て、あとをつけてみたくなりました。
 ゆっくり進む行列の、あとになりさきになりながら、つけて行きました。ときおり、仲間(ちゅうげん)を従えた一人歩きのお侍に出会いました。
 行列が佐々並の市に着いて、お武家様が、それぞれはたごに入っていくのを、貴布祢神社から眺めて、その夜は、神社の森で休みました。
 翌日、行列は、まだ日の高い頃に萩に着きました。三田尻よりにぎやかな萩の街を歩いていきますと、田中の荒神様に来ました。と、その境内に弥三郎が、今まで見たこともないきれいな毛並みの美しいきつねがおるではありませんか。
 一瞬、いなずまを受けたような衝撃が、全身をはしりぬけました。弥三郎は、はやる心をじっとおさえて、女ぎつねに近づき、さりげなく初対面のあいさつをしてみました。
 女ぎつねの名は、おさんといいました。話しているうちに、おさんも弥三郎が好きになりました。そこで、おさんの案内で、萩の街を見物することになりました。そして夜弥三郎は、おさんのすすめで萩に泊まりました。
 翌日、二人はまた会うことを約束して、別れました。
 三田尻に帰った弥三郎は、おさんのことが忘れられず、また会いたくなりましたが、途中どこに泊まろうかと思案しました。佐々並の貴布祢神社の森の寒さは、耐えがたいものでした。

 そこで、思いだしたのが殿様行列のことでした。一人歩きのお侍が、仲間を従えていたことや、行列の中の立派なお侍が、土山屋に泊まったことです。
 さっそくお金を用意して、仲間をやとい、目鼻立ちのととのった気品のある若侍に化けて、萩へ向けて出立しました。佐々並に来て、予定通り土山屋に入りました。土山屋の主人は、下へも置かぬ丁重さで、弥三郎迎えて、上の間に案内しました。そこで弥三郎は、
「一夜の宿をお願い申すが、ちと事情があるので、仲間は別の部屋をご用意いただきたい。また、拙者(せっしゃ)の部屋の準備ができて食膳を運ばれたら、翌朝までは、一切おこまいなく願いたい。」
といって普通の人の倍の宿賃を主人に渡しました。主人は、さっそく女中を集めて、弥三郎の申し出を伝えるとともに、廊下での立ち聞きや、のぞきみを堅く禁じました。
 こうして弥三郎は、年に何回か土山屋に泊まって、萩のおさんに会いに行っておりました。
 何年か過ぎたある日のことです。つとめはじめたばかりの女中が、弥三郎の部屋係になりました。女中は気品あふれる若侍の部屋係になって、心はずませて、部屋の準備をしながら、いろいろと話しかけますが、弥三郎は一言も口をきいてくれません。夕方、食膳の用意が出来ました。上品な口もとをした若侍が、二合近くはいっている※物相(もつそう)のご飯を、どうして食べるか、その所作をみたいと思いましたが、女中の前では箸に手をつけようとしません。
 仕方なく女中は、部屋を下がりました。一旦は階段を降りましたが、どうしても見たくてたまりません。
 再び、そっとひき返して若侍の部屋をうかがいました。その時、弥三郎の姿が、にぶい行燈(あんどん)に照らされて障子に写っていました。まぎれもなく若侍は、食事をしています。しかし、物音ひとつしません。女中は、もうこられきれなくなりました。
 とうとう禁を犯して、のぞきみをしてしまいました。これに気付かぬ弥三郎ではありません。さっと姿をかえて、宿を出ていきました。そして、二度と土山屋に泊まらなくなりました。
 このことがあってから、隆昌(りゅうしょう)をきわめていた土山屋から、時代の流れの影響もあったのでしょう。しだいに客足が遠のいたということです。(佐々並村史より)


※物相・・・・ご飯を盛る食器、1~2合入った。
※大名行列
 行列は、往還(江戸へ向かうこと)、下向(江戸から帰ってくること)とも山口と三田尻に泊まった。記録に残る一番大規模な行列は、貞享元年(1684)吉就初下向の1663人である。その後少なくなって、宝暦2年(1752)重就初入国の時は、564人となっている。大体平均1000人程度であった。(萩往還より)