木村源内の化物退治

 むかし、川上村の大四郎山の搭の岩ほら穴に、母ぎつねと子ぎつねが住んでおりました。山深いこのあたりでは、獲物が多く、母子きつねは、人間と同じように、鹿の皮をなめして敷物にしたり、冬の日のために、足袋を作ったりして、ぜいたくともいえる生活をしておりました。
 そうしているうちに、子ぎつねは、だんだん成長して、年頃の娘ぎつねになりました。この娘ぎつねは、人間に近い生活が身に付いたのか、仲間のきつねを相手にせず、人間に興味をもちはじめました。

▲若宮社

 母ぎつねは、娘をいましめますが、娘はどうかして、人間のお嫁さんになろうと考えました。そして夜な夜な、村人を化かしては、いいよりますが、だれも相手にしません。そこで、娘ぎつねは、村人を深い谷に連れ出しては、突き落として殺してしまいました。
 そのころ、関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村の部下で、近江国の木村源内という武士が、家来数名とともに、佐々並の大下に落ちてきました。源内は、大そう男ぶりが良く、大きなまつげに、ぎよろりとした目、鼻筋のよく通った、みるからに精悍でたくましいお侍でした。
 庵も出来て、仮住まいの生活もようやく落ち着いたある夜、源内が床に入って寝つこうとしますと、枕もとでかさこそともの音がします。うっすらと目を開いてみますと、年の頃20前後の美しい女が、そそくさと足袋をはいております。そのしぐさがいかにも艶めかしく、「はっ」と目を開いて起きようとしますと、もう、その姿はありませんでした。
 そして、女のいた場所に、「鹿の玉」が一つ残されていました。それから、毎晩同じ事がくり返されます。不思議に思った源内は、このことを家来に話しますと、
「わたしどもも、殿がお休みになると、もの音がしますので、不思議に思っておりました。そればかりか、殿のお部屋には、これまでついぞ見たこととのない『鹿の玉』が置いてありますので、これはきっと化物のしわざではないかと申しておりました。」と申します。
 そこで源内は、次の夜、居間のいろりに火を焚かせて、家来共に見張りをさせ、自分は、刀をふとんの中にかくしもって待つことにしました。
 ところが、その夜に限って、女は姿をみせません。夜もふけて、家来共も昼間のなれない畑仕事の疲れで、ついうとうととしていました。

 源内も、「もう、こんなにおそく来ないだろう」と、にぎっていた刀の手をゆるめ、目を閉じました。
 しばらくすると、例のかさこそという音がします。どこからともなく、女は現れて、片方の足袋をはいて、もう一方の足袋をはこうとしています。
 源内は、とび起きざま、ここぞとばかり「エィッ!」と抜き討ちに女に切りかかりました。源内の少しの油断で、女は一瞬早くとび退り、その場で殺すことはできませんでしたが、たしかに手応えはありました。
 一方、居間にいた家来共も、源内の声に「はっ」と目を覚ましました。すると、一匹の大きな女狐が、いろりにかけてあった鍋に跳び移り、じざいかぎをつたって、天井に登って逃げて行きます。見れば鍋の蓋に、血痕が残っています。

 そこで、折からの月明かりほたよりに、血の跡を辿って行きますと、大四郎山の搭の岩の上で、傷ついて息も絶え絶えの娘狐に、母狐が、
「親のいいつけを守って、人間なんか好きにならなかったら、こんなことにならなかったのに。」
 と涙を流してさとしていました。
 その後、村人はきつねに化かされて谷底に落ちて死ぬこともなく、平和に暮らせるようになりました。
 源内も、そこに立派な家を構えて永住しました。源内の死後、その武勇伝と徳をたたえるために、佐々並権現社の境内に、社を建て、若宮社と呼んで、毎年九月二五日に祭礼を行っています。(言伝え)


 1845年頃の記録に「木村家には、女狐がもって来た鹿の玉と、源内が切りつけたときに、狐が残した鹿の皮の足袋と、その時使った脇差一腰が伝わっている」とある。
 また、木下の墓地にある古い墓に真田姓のものがあり、このことは、木村源内をはじめ、一緒に来た武士が、真田一族に関係あることを証明しているのではないかと、いわれている。